6月2日 Guggenheim Museum, Donna Uchizono

Guggenheim Museum
現代の写真、パフォーマンス、ヴィデオ作品をテーマ別に展示した"Haunted"。トラウマだの空虚だの、愚劣で馬鹿げたテーマでめげる。しかし展示されている多くの作品もその程度のものでしかない。それだけならまだ仕方ないが、ジョナスやベッヒャーsのまともな作品もつまらなく見えてくる。Kenneth Noland(死んだの知らなかった)、マレーヴィチは小規模過ぎて。Julie Mehretuの展示だけが素晴らしい。単に層が多いだけでなく、層の関係に思いがけない飛躍がある。
Frick Collection
小規模だけど、好内容なコレクション。バーンズ・コレクションよりよっぽど良い。個人コレクションなんだから仕方ないが、ピントのずれた居心地の悪さもまた。
Donna Uchizono Dance Company
@ Baryshnikov Arts Center + The Kitchen
前半バリシニコフ、後半キッチンでやるというダンス公演。バス移動中もささやかなパフォーマンス。前半はいまいちだったけど、後半特にDonna Uchizonoの動き(殊に足指)が素晴らしい。繊細かつ大胆とはこのこと。正確にシンクロしないユニゾンも面白い。

6月1日 Twyla Tharp, Noa Guy

NYPLでダンスヴィデオ。
"Twyla Tharp Scrapbook 1965-1982"の続き。"The Fugue"(1970)はテーマの逆行、反行、倍速の操作によるダンス。ヴォキャブラリーはエクレクティックであり、明快な構造とのコントラストが素晴らしい、極めて魅力的な作品。いろんなカンパニーのレパートリーになって欲しい。その後、個人史の探求からミュージカル、チャールストンなどのポピュラーなダンスへの参照が語られるが、以降は相対化された引用が、何の批評性もない受容を経過して行くように見える。作家もそれを受け入れ、作家の前衛はむしろ観客の保守を保証していくようになる。それでも"All About Eggs"に見られるユーモアや、ダンサーにカメラを持たせ、撮影そのものも振付した"Bad Smells"には時代に同伴しただけではない、面白さがある。このドキュメンタリー、Fitzgerald & Sanbornのプロダクション。
Twyla Tharp"Deuce coupe"(1973)のスタジオ・リハーサル。ポップダンスとクラシック・バレエのテクニックを対比的に扱ったダンス。今でこそ表現の前提でしかないことが、73年にはどれだけ新鮮に映ったことだろうか。年代的にも美術や音楽のエクレクティシズムを遥かに先取りしているが、それでも今見ると、時代の先駆以上のものは感じない。
Lucinda Childs"Four Elements"(1989)Rambert Dance Companyの委嘱作についてのBBCドキュメンタリー。Carnationの引用が入っている。語法的には幾何学的な動きではあるが、新表現主義の背景画と衣装、ロマンティックなギャヴィン・ブライヤーズの音楽のせいで、しょうもないものに。
Noa Guy
@ Roulette
交通事故で脳に障害を負った作曲家の、意識の喪失とその回復をテーマにしたコンサート。いまだ歩くことができない、老女といって良いだろう年齢の作曲家が若いダンサーに抱かれて、手を振りながら振り回されて登場し、繊細な電子音、内部奏法のピアノとそのライヴ・プロセッシング、ヴォイス・パフォーマンス。その障害と関係づけられるのか知らないが、表現への強烈な意志と、恐ろしくデリケートな音楽に感銘を受ける。

5月31日 Tony Conrad

トニー・コンラッドの自宅訪問。彼にとってミニマリズムの最初はヴァイオリンのレッスンでゆっくり弾く練習をしたこと、インディアンの音楽に出会ったこと。だからラ・モンテ・ヤングのグループで単音を弾く役を引き受けたこと。ミニマリズムというより、sustained soundと呼びたいこと。その他、ワークショップでアマチュアと仕事すること、教育のこと、最近の音楽、演劇についてなどなど。最後にオープン・リールのペーター・クーベルカによるジャック・スミスのインタヴュー(1973)を聞かせてもらう。スミスは病気になる大分前だが、攻撃的ともいえる内容を蚊が歌っているような声で語る。

5月30日 Harlem, Duane Pitre

Harlem観光。Memorial Baptist Churchで礼拝見学。200人くらいの観光客に対して、地元の信者は30人くらい?ヴァケーションに行っちゃったのかな?牧師も嫌みか非難かユーモアか分からないようなことを観光客に言う。いろんなアンバランスを含めて礼拝とコンサートの関係を今更ながら考える。
The Studio Museum in Harlem
ハーレムの現代美術館。ほとんどは黒人の作家で、他に白人による黒人問題を主題にした作品が少し。直裁な政治的表現からミニマル、コンセプチュアルまで満遍なくテーマ別の展示。ここでは色が問題だから、まさしく絵画の問題だったりするんですね。では黄色はどうなるか。エイドリアン・パイパーはやはりずば抜けて面白い。気になった作家、Romare Bearden、Leslie Hewitt、Al Loving、浮世絵の顔を黒くしたIona Rozeal Brown。
Duane Pitre, Kyle Bobby Dunn
@ Zebulon
知らない人を見に行ったつもりだったが、Duane Pitreの6重奏は知り合いばかり。Just Intonationによるスケールを使ってラップトップ、Vn、Vc、Cb、ダルシマー、ハープによる即興的な演奏。散発的な音からドローンに移行していく。若い演奏家ばかりだか、本当にうまい。うまいというのはピッチや楽譜を正確にやるばかりでなく、コンセプトを理解し、適切なアーティキュレーションを付加でき、他の音を聴いて即興もできてしまうということ。次のKyle Bobby Dunnはギターとヴァイオリンをプロセッシングして、ドローンの重なり合う、アンビエント。確かにあまり面白くなかったが、前の演奏家も客もほとんどが始まる前に帰ってしまう。友達関係だけで成り立っている状態はあまり好きではない。若いうちはいいが、そのあとが大変。

5月29日 MET, Raha Raissnia

MET museum
ベリー公の美しき時祷書"Belle Heures du Duc de Berry"の全ページをばらして並べた展示が白眉。たぶんしばらくは来れないので、ムガール美術とルネサンス美術を中心に回る。集め方に節操がないが、それにしてもニューヨークでは最も優れた美術館。
Richard Lainhart, Sandy McCroskey / Raha Raissnia, Michael Waller
@ Diapason Gallery
Michael Waller/ いろんなところの打ち上げに現れる人だが、初めて作品を見る。1曲目、正弦波のドローンとコントラバス、ヴァイオリンの記譜されたメロディーの干渉。2曲目、ヴィーナの開放弦弓奏のトリオ。3曲目、関係だけを規定したヴァイオリンとコントラバスの即興デュオ。Tom Chiuの演奏が上手過ぎて、たぶんもとのコンセプトを凌駕してしまっている。Sandy McCroskey + Raha Raissnia/ ドローンからパルスに移行するミニマルな音にRahaの映像。モノクロの抽象絵画のようなスクリーンにスライド二台、8mm二台を映写する。もとの映像は具体的な実写だと思うが、重なることでとても美しい抽象映像になる。映像に関してはアナログの高解像度にデジタルは追いついてない。と思ったらRichard Lainhartは信じられないくらい高解像度のデジタル抽象映像に、ブックラ・シンセサイザーによる生演奏。デジタルの限界を見極めつつ、その特性に従った抽象。音楽はアンビエント・ドローン。

5月28日 Marina Abramović, Missy Mazzoli

MOMA
無料時間になっていないのに今までMOMAで体験した最大の人出。話題のアブラモヴィッチ展から。本人が観客と対面するやつにせよ、その他ライヴ・パフォーマーの作品にせよ、人が多過ぎ、列をなし、警備員の指示に従って進行する始末。観客に判断と責任を負わせる、もとのコンセプトは何も機能していない。まあそれは仕方のないことかもしれないが、それ以上にあまり関心を持ってこなかったこの作家の作品をまとめて見て、より関心がなくなった。ごく初期の作品を除けば、体はオブジェクトたりえないという絶対の安心の上に作品が成立しており、実際の肉体的危険に反して、体と意識の関係は極めて安定したものになっている。古典的な心身二元論を前提に、結果的にそれを安易に癒着させるものでしかない。それに比べれば、Ulayの方には反復や持続が認識のシステム自体を更新してしまうことへの関心があるし、小さな部屋でやっていたJoan Jonasの方が遥かに重要なパフォーマンス・アーティストだと思う。もうひとつ大きな特別展はHenri Cartier-Bressonで、集大成の展示。対象への瞬間的で主観的な驚きがフレームに結実するさまに感動する。"Alternative Abstractions"はジェンダーに焦点をあてて、戦後の抽象を考えるという展示。ルイーズ・ブルジョワの布地の本など面白い作品が多い良い展示。Lee Bontecouの作品を初めてまとめて見る。常設はやはりロシア未来派の部屋に尽きます。これだけ多いといちいち作家の名前は見なかったりするが、面白いのは最近関心を持っている作家、例えばオイヴィント・ファールシュトレームやユタ・バースの作品は視野の中で浮き上がるように見えて来ること。瞬間芸術ってうらやましい。

The Music of Missy Mazzoli
@ Roulette
あちこちで話題の作曲家。前半器楽とエレクトロニクス(レコーディング)の作品を中心に。後半バンド。演奏者は最後にゲストで出て来た一人を除けば全員女性でその辺は戦略なんでしょう。時々映像。印象派の延長にあるような不協和音を中心にリリカルでちょっとロマンティックな音楽。フォーカスははっきりしているが、好き嫌いの問題以上のものは何もない。またバンドの方はニューヨークの平均レベルで考えると随分たどたどしい演奏で、満員の観客の熱狂に当惑。女の子が並んでればいいんですかね。

5月27日 Terry Fox, Le Grand Macabre

EAIのViewing Roomでヴィデオ。
Terry Fox/ "Lunar Rambles"76年のキッチンでの個展中、ニューヨーク各所でおこなわれたパフォーマンスの記録。パフォーマンスといっても2種類のボウルを弓で延々擦り持続音を出すだけ。ブルックリンブリッジ、地下道、Fulton Fish Marketなど、各30分強。人気のない所を選んでいるようで、立ち止まる人もなく、また場所毎に撮影の仕方は考えられていて、テリー・フォックスがメインではなく、それを含めた環境が撮影されている。聴こえるか聴こえないかのドローンだが、一度それと分かれば、周囲の音を強く浮きたたせる。"Tonguings"(1970)舌の執拗な運動を延々撮影。20分に渡って見事にヴァリエーションが展開される。ピントがぼけるのもお構いなく、歯がボロボロなのも強烈。"Children's Tapes"ボウル、スプーンなど日常の物体と火や水を組み合わせて、ハエ取りや水の滲出など、小さく自律的でかつドラマティックな出来事を繰り返す。素材的にはミニマリズムであるが、明快な展開を持つあたりでミニマリズムを大きくはみ出している。もしかして凹型の物体に特別な関心があったのかな。
WGBH "Video Variations"(1972)ボストン交響楽団のクラシック(最新でシェーンベルク)演奏に8人のヴィデオ・アーティストに映像をつけさせた、MTVのハシリのような作品。Tsai Wen Ying, Stan VanDerBeek, Constantine Manos, Douglas Davis, Jackie Cassan, Russell Connor, James Seawright, Nam June Paikの順。多いのはダンスなどの実写と合成ヴィデオイメージを音楽の雰囲気に合わせて編集したもの。あるいはメンタルな解釈もある。中でパイクはベートーヴェンをバックにベートーヴェンの胸像を殴ったり、ピアノのミニチュアを燃やしたり、フルクサス的なユーモアと音楽と全然シンクロしない点でずば抜けている。
Jud Yalkut "26'1.1499" For A String Player"(1973) シャーロッテ・モアマンとパイクによるケージの"26'1.1499"のパフォーマンスを素材にYalkutがヴィデオ合成、再編集したもの。それにしても元のパフォーマンスが凄い。弦の指示の部分はたぶんちゃんと弾いているが(それでも演奏時間はだいぶ違う)、弦以外を演奏する部分を山積みになった大量の日用品、ガラクタでおこなう。テレビ、ラジオ、レコードプレーヤー、ガラスどころか、演習用の爆弾まで。コーラとワインとポルノ雑誌と紙幣をジューサーでミックスし、マッシュルームを炒め、果てはニクソンに電話をする。パイクは主に譜めくりだが、ときどき服を脱いで楽器になって叩かれる。モアマンとパイクの普通過ぎるやりとり。Water Walkの極端な拡張。ケージは一体どんな気持ちで見たことだろう。
Le Grand Macable
@ Avery Fisher Hall
ニューヨーク初演だそうで、New York Philのプロダクションでオペラとしてのフルステージではなく、あまり期待しておらず一番安い30ドルの席だったのだが、なかなかの内容。ステージにはオケが乗ったまま、右手に2つリアルタイム撮影のマシーンがあり、ここで舞台背景をリアルタイムに撮影、天井から吊るされた太陽(目玉?)の巨大スクリーンに写される。左手に張り出し舞台があり歌手は主にここ。所詮オペラとしての限界はあるけれど、客席、客電、オケも舞台の一部としてフルに活用した、見事な演出。歌手もうまいだけでなく、演技もキレまくっており(特にAstradamorsと Mescalinaの悪趣味ぶり)、衣装も悪趣味にこれでもかとお金を使っている。リゲティが言っているようにアンチ・アンチ・オペラなのでオペラと同じようにお金はかけないといけないわけか。オペラ本来の悪趣味をアイロニーにしてるわけね。オペラという権威がはっきりしているから、それをコケにしつつおいしいところをとるのは容易いと思うけれど、大成功の舞台だと思う。演出のDough Fitchはミニチュアマシーンを持って来たカンパニーGiants are Smallの人。その機械だけで充分存在感があり、日本の感覚ではGiants are still big.3階ボックス席だったが、このホールで一番音が良いように感じる。